最強の投資家 ジョージ・ソロス その① ソロスの半生

こんにちは!証券兄さんです。

以前、誰もが知る投資家「ウォーレン・バフェット氏」についてまとめさせていただきました。

今回は、「最強の投資家」・「ヘッジファンドの帝王」・「イングランド銀行を潰した男」など数々の異名で知られる投資家ジョージ・ソロス氏についてまとめていきたいと思います。

 

 

「イングランド銀行を潰した男」 ジョージ・ソロス

 

 ジョージ・ソロスGeorge Soros、1930年8月12日 – )は、ハンガリー・ブダペスト生まれのハンガリー系およびユダヤ系アメリカ人の投資家・投機家、慈善家です。

ハンガリー名はショロシュ・ジェルジ(Soros György)。「イングランド銀行を潰した男」(”The Man Who Broke the Bank of England”)の異名を持っています。

 

ソロス・ファンド・マネジメントの会長であり、オープン・ソサエティ財団の創設者です。

また、彼の生まれ故郷でもあるハンガリー・ブダペストにある中央ヨーロッパ大学 (CEU) 共同創設、シンクタンク Institute for New Economic Thinking (INET) 出資者(創設に当たり5000万ドルを提供)及び創設者の一人です。

 

投資家及び慈善家であると同時に、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで哲学の博士号(Ph.D.)を得た哲学者、自由主義的な政治運動家、政治経済に関する評論家としても広く認められています。

自身を「国境なき政治家(”stateless statesman”)」と称しています(この呼称はもともとマケドニアの元首相ブランコ・ツルヴェンコフスキから与えられたものであり、それを気に入ったソロスが以来自称するようになりました)。

また、ブルームバーグの億万長者ランキングによればソロス氏は、2015年9月の時点で世界で24番目に、米国で17番目に裕福な個人である。個人資産は277億ドルにも上ります(2015年9月)。

 

 

ジョージ・ソロスの半生

 

・1930年、ハンガリー・ブダペストのユダヤ人家庭に二人兄弟の次男として生まれる。(ソロス氏 0歳)

父ティヴァドーは、弁護士で作家活動もしていました

 

・1935年、ハイパーインフレーション下のハンガリーで初めて通貨取引を行う。(ソロス氏 5歳)

 

正確な年数や、金額の規模はわかりませんが5歳の時には父親と共に為替取引に触れていたという説があります。

 

・1940~年、10代のときにナチス・ドイツによるハンガリー侵攻が始まり、終戦直後にはドイツ軍とソ連軍とのブダペスト銃撃戦のさなかにいましたが難を逃れました。

また、この頃ハンガリーは、当時の通貨ペンゲーが10垓(つまり10億兆)規模の史上かつてない猛烈なインフレに見舞われたため、ソロスは通貨危機を経験しています。

 

・1947年、単身イギリスに渡る。(ソロス氏 17歳)

当時共産党が支配していたハンガリーを出国、イギリスへの脱出を図ります。

さらに2年後、19歳のソロスはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに入学します。

しかし、この頃のソロスは外国人留学生とはいえ亡命同然でイギリスに渡ったため、決して裕福ではなく勉学の傍ら鉄道会社での荷運びなどをする苦学生でした。

彼は、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで、カール・ポパーが著した自由民主主義に関する本、『開かれた社会とその敵』を読み、ポパーの主張は全体主義的であるとして反論するもその哲学の世界を深く学びました。

その著書の中に書かれている、デオロギー(人間の行動を左右する根本的な物の考え方)に真実はなく、個人の権利の尊重を維持する社会が繁栄できるときにのみ、社会は発展するという理論が、ソロスのその後の人生に強い影響を与えたのです。

 

・1953年、ロンドンのシンガー & フリードランダー社に入社。(ソロス氏 23歳)

ソロスは1952 年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業しました。

しかし、外国人ということもあり新卒後すぐには金融関係の仕事に就けず、いくつかの職を転々とします。

意外なことに、ここでは給料や個人業績はパッとせず、同僚の紹介で彼は大西洋を渡りアメリカ・ニューヨークに移り住む決意を固めます。

 

・1956年、アメリカに移住。ニューヨークのウォール街に赴く。(ソロス氏 26歳)

このニューヨークで、ようやく彼は大学の知識を生かせる仕事に就きました。

ウォール街の証券会社 F.M.マイヤーでの仕事を得たのです。

その後15年は、いくつかの証券会社に転職を繰り返し、トレーダーとしての腕を磨きました。

 

・1969年、ジム・ロジャーズ(彼もやがて世界的に有名な投資家となる)と共にファンド(後のクォンタム・ファンド)を設立。(ソロス氏 39歳)

当初は「ソロス・ファンド」という名前でしたが、その後、「クォンタム・ファンド」と改名されました。

このファンドは投資家から1200万ドルもの資金を集めました。

ソロスが会長を務める会社の主力商品であるこの「クォンタム・ファンド」は多大なリターンを投資家、そしてソロス自身にもたらしました。

1200万ドルの資金が1980年には、4億ドルになったのです。実に、利回りは約3,300%(元本の33倍)という驚異的なものでした。

 

・1981年、クォンタム・ファンドは創設以来初めての損失を出す。(ソロス氏 51歳)

 

翌年の1981年にはファンドは大きく損失を出し、4億ドルの資金は2億ドルに半減します。

これが「クォンタム・ファンド」の初めての危機でした。

それまでの成績が驚異的であった分反動も大きく、この年は、22%のマイナスの運用実績となりました。

以降も、1987年のアメリカ株価大暴落(ブラック・マンデー)の際に単年度損失を出してはいますが、「クォンタム・ファンド」といえば、2009年のリーマン・ショックまで非常に好調な運用益を得られるファンドとして有名でした。

 

・1992年、イギリス政府の為替介入に対抗してイギリスの通貨ポンドへ空売りを行い、15億ドルとも言われる利益を得る。(ソロス氏 62歳)

 

1990年代に入ると、ヨーロッパのEU加盟国では統一通貨(現在の「ユーロ」)の準備のための為替メカニズム構築が進んでいきます。

イギリスもその枠組みに参加しますが、ソロスは当時不況にあえいでいたイギリスが、EU最大の経済大国ドイツにあやかろうとしていると感じたのです。

イギリス経済がドイツ経済に寄り掛かったままでは、ユーロ構想はいずれ立ちいかなくなる

と感じたソロスは、同じEU内のイタリアが通貨リラの7%切り下げを行ったことをきっかけに、1992年9月13日、100億イギリス・ポンドを売り払いました。

当時のドイツ・マルクとの固定レートが崩れるほどの通貨が売られてしまったイングランド銀行(日本の日銀のような中央銀行)は、翌日から為替介入はもちろん、1日に二度の公定歩合の引き上げなどを行います。

しかし、万策が尽きソロスのポンド売却から3日後、ユーロ構想からの離脱、つまりEU内の固定相場制を終えることになります。

 

この一件により、「イングランド銀行を潰した男」の異名をジョージ・ソロスは得ました。

 

・2011年1月26日、世界経済フォーラム(ダボス会議)に出席するため訪れていたスイスのダボスにて、投資から引退し、それまで注力していた慈善活動や新経済概念の構築に力を入れることを表明。(ソロス氏 81歳)

 

ソロスが慈善活動を始めたのは1979 年のことでした。1984 年にオープン・ソサイエティ・ファンデーションという基金の団体を設立しました。

この基金は正義、教育、公衆衛生、ビジネス開発、独立系メディアを発展させるためのグローバルな取り組みに対し、広く資金を提供するものです。

このソロス主導による基金が援助した活動は列挙にいとまがありません。その活動をまとめたリストは500ページにも及ぶものです。

その一例としては、自然災害による被災者支援、ニューヨーク市の学童に対する放課後活動プログラムの確立、芸術分野の活動資金調達、ロシアでの大学運営システムへの金融支援、東ヨーロッパにおけるいわゆる「頭脳流出」への対策―などが挙げられます。

 

 

※おまけ

2013年、アベノミクスの量的緩和政策による円安相場で10億ドルの利益を得る。また同年にクォンタム・ファンドは、55億ドルもの利益を上げた。これはヘッジファンド史上最高額であるという。(ソロス氏 83歳)

 

あれ…引退したのでは?と証券兄さんも思いましたが、個人的な資産での運用は未だ現役で行われているそうです。

慈善活動や政治運動がメインになりましたが、御年87歳でご活躍されています。証券兄さんも見習いたいですね。

 

今回も読んでいただきありがとうございました。疑問点や質問等がありましたらご意見下さい。次回もよろしくお願いします!

 

 

 

 

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